小川村という山村を訪ねた
4月の末、大町市の隣の村「長野県上水内郡小川村」という山奥の村を訪ねた。今回の話も上映会の後日談の一つかもしれない。山深い山村は辺り一面が山桜(?)が転々と咲いていた。

今回の後日談はこの訪れたのは小川村の大日方さんという長野県ニューギニア会員の方からの一通の手紙をいただいた。小川村というのは既に紹介した撃墜王・西澤広義さんの出身地である。その大日方さんの手紙には支那事変で名誉の戦死をした故和田喜三治さんの遺族が写真や手紙を完全な形で保存されているのでぜひ見てくれないかというものだった。
当時の新聞には戦死した和田さんの戦死広報が載っていた。

当時は村を挙げて村葬を営んだ。その葬儀のときの「のぼり旗」というのだろうか、白地の布には「英霊故陸軍上等兵・・・・」と墨字で大きく書かれている。ほとんどがぼろぼろになっていた。


今回の後日談はこの訪れたのは小川村の大日方さんという長野県ニューギニア会員の方からの一通の手紙をいただいた。小川村というのは既に紹介した撃墜王・西澤広義さんの出身地である。その大日方さんの手紙には支那事変で名誉の戦死をした故和田喜三治さんの遺族が写真や手紙を完全な形で保存されているのでぜひ見てくれないかというものだった。
当時の新聞には戦死した和田さんの戦死広報が載っていた。

当時は村を挙げて村葬を営んだ。その葬儀のときの「のぼり旗」というのだろうか、白地の布には「英霊故陸軍上等兵・・・・」と墨字で大きく書かれている。ほとんどがぼろぼろになっていた。

大正9年生まれの不運な運命!
花の命は短くて・・と言う。今日の雨で満開のサクラも散ってしまった。先日、上野国立博物館の日本庭園が解放されていた。1本の枝垂れサクラが訪れる人たちを楽しませてくれていた。

製作した映画「大本営最後の指令」の松本護国神社のニューギニア戦死者の慰霊碑前でインタビューしたシーンがある。撃墜王・西澤広義さんの姪御さんが言う「私の叔父の西澤広義も大正9年(1920年)生まれです」また「大正9年生まれの方は、太平洋戦争のために生まれたようなものです。戦死した方が多いのです。」
映画の舞台の大町市旧社地区生まれの社村尋常小学校卒業生の写真を入手した。驚く事に今回の映画出演した「降旗敬蔵さん」、「関三郎さん」、「高橋恭男さん」写真にはないがあの予科練生の山岸昌司さんも同級だったとか。生き残った方は現在、92才だ。
・・・注! 本日、写真を提供いただいた社地区の方からクレームがあった。即日、掲載していた写真を削除してくれないかというものだった。私「なぜでしょうか?」 氏「私の了解なし・・」ということらしい。残念ながら削除させてもらった。私は了解なしでブログに公開した事はやはりまずかったと反省した。
しかしながら、私たちが取材した大正9年生まれの方々は、降旗敬蔵さん、関三郎さん。高橋恭男さんと写真には写っていなかったが、あの予科練生・山岸昌司さんも同期だった。偶然にも社村尋常小学校の同期だったという事実。取材時には気づかなかった、大正9年生まれの方々の不運な運命には愕然とした。
彼らもやはり「同期の櫻」というのだろうか・・・
ちなみにこの年に生まれた有名人に俳優の三船敏郎、野球監督で知将といわれた西村幸雄、写真家の秋山庄太郎、そして、永遠の美女として有名な女優・原節子がいる。あの原節子さんも92才なのか・・・感慨深い。

製作した映画「大本営最後の指令」の松本護国神社のニューギニア戦死者の慰霊碑前でインタビューしたシーンがある。撃墜王・西澤広義さんの姪御さんが言う「私の叔父の西澤広義も大正9年(1920年)生まれです」また「大正9年生まれの方は、太平洋戦争のために生まれたようなものです。戦死した方が多いのです。」
映画の舞台の大町市旧社地区生まれの社村尋常小学校卒業生の写真を入手した。驚く事に今回の映画出演した「降旗敬蔵さん」、「関三郎さん」、「高橋恭男さん」写真にはないがあの予科練生の山岸昌司さんも同級だったとか。生き残った方は現在、92才だ。
・・・注! 本日、写真を提供いただいた社地区の方からクレームがあった。即日、掲載していた写真を削除してくれないかというものだった。私「なぜでしょうか?」 氏「私の了解なし・・」ということらしい。残念ながら削除させてもらった。私は了解なしでブログに公開した事はやはりまずかったと反省した。
しかしながら、私たちが取材した大正9年生まれの方々は、降旗敬蔵さん、関三郎さん。高橋恭男さんと写真には写っていなかったが、あの予科練生・山岸昌司さんも同期だった。偶然にも社村尋常小学校の同期だったという事実。取材時には気づかなかった、大正9年生まれの方々の不運な運命には愕然とした。
彼らもやはり「同期の櫻」というのだろうか・・・
ちなみにこの年に生まれた有名人に俳優の三船敏郎、野球監督で知将といわれた西村幸雄、写真家の秋山庄太郎、そして、永遠の美女として有名な女優・原節子がいる。あの原節子さんも92才なのか・・・感慨深い。
文部省1型初級滑空機
文部省1型初級滑空機とは戦前の昭和13年から当時の文部省は各中学校(旧制中学校)に滑空部を設ける事を奨励した。この滑空機(滑空機)とは今で言うグライダーの事である。敵性用語の英語を使う事を禁止していた時代なので「滑空機」と言ったのだろうか。
その後、昭和15年(1940年)にタイトルのような「文部省1型初級滑空機」が発表された。調べると私の母校の大町中学(現在の大町高校)にもこのグライダーが寄贈されたそうだ。
写真は旧制大町中学の滑空部の生徒とグライダー

千葉県稲毛市の民間航空機記念館にある同機の復元機。

このグライダーにまつわる話が映画の後日談として、山岸昌司さんの古い写真アルバムの中にあった新聞記事に書かれていた。下記のような記事である。
「北安社村字館の内出身山岸昌司飛行兵曹長が南海の涯に壮烈華と散ったが、同君がかつて予科練時代の上陸(休養外出)先は茨城県友部町の永井一郎衛門氏宅二階の一室だった、永井さん方では当時山岸飛行兵曹長と不思議に、年も気だてもそっくりの一粒種(当時17才)を亡くしたばかりのところ、永井さん一家と山岸飛行兵曹長との縁は肉親のような親密さで日ごとに結ばれていった、それから天晴若鷹は大陸からさらに転戦、壮烈な戦死を
とげたのであった。さる26日永井さんはわざわざ茨城県から山岸君の生家を訪ね「何とぞこの村から続々後に続く飛行兵を送り出したい」と国民機へグライダー1台の寄付を申し出で2000円を寄付した。村では村会を開いて感謝の寄付を採納、雄飛養成に総力をあげる意気込み」
写真は高橋正雄村長名で書かれたグライダーの命名。永山号という命名された。

その後、昭和15年(1940年)にタイトルのような「文部省1型初級滑空機」が発表された。調べると私の母校の大町中学(現在の大町高校)にもこのグライダーが寄贈されたそうだ。
写真は旧制大町中学の滑空部の生徒とグライダー

千葉県稲毛市の民間航空機記念館にある同機の復元機。

このグライダーにまつわる話が映画の後日談として、山岸昌司さんの古い写真アルバムの中にあった新聞記事に書かれていた。下記のような記事である。
「北安社村字館の内出身山岸昌司飛行兵曹長が南海の涯に壮烈華と散ったが、同君がかつて予科練時代の上陸(休養外出)先は茨城県友部町の永井一郎衛門氏宅二階の一室だった、永井さん方では当時山岸飛行兵曹長と不思議に、年も気だてもそっくりの一粒種(当時17才)を亡くしたばかりのところ、永井さん一家と山岸飛行兵曹長との縁は肉親のような親密さで日ごとに結ばれていった、それから天晴若鷹は大陸からさらに転戦、壮烈な戦死を
とげたのであった。さる26日永井さんはわざわざ茨城県から山岸君の生家を訪ね「何とぞこの村から続々後に続く飛行兵を送り出したい」と国民機へグライダー1台の寄付を申し出で2000円を寄付した。村では村会を開いて感謝の寄付を採納、雄飛養成に総力をあげる意気込み」
写真は高橋正雄村長名で書かれたグライダーの命名。永山号という命名された。

兵事資料は歴史を記録する公文書
私たちが映画化した旧社村兵事資料は第二次大戦時の徴兵制度について知る事の出来る一級の兵事資料であり公文書と言われている。
3月27日付の読売新聞の論点スペシャル「議事録未作成問題」で、元首相の福田康雄氏は「公文書は歴史を記録する資料となるが、政府は、東日本大震災に対応した原子力災害対策本部など10組織の議事録が作成していなかったことは非常に重要な問題であり、1000年一度といわれている大災害の経験を将来に遺せなかった」と言っている。
また、東京大学大学院人文社会系研究科教授の加藤陽子氏は「震災や原発事故で忙しかったから記録は残せなかった」と政府は釈明している。しかし、「第2次大戦終結時の混乱期でもきちんとした記録が残されている。具体的には1945年8月14日から記録の作成が始まった次官会議の議事録がある。マッカーサーが何時進駐するか分からない状況下、各省庁の次官たちが旧日本軍の兵器や燃料などについて「民需に活用するため隠しておこう」という記録が大日本帝国用箋に書かれていると語っている。
*松本市文書館に保存されている”大本営最後の指令書”といわれる焼却指令書

前段が長くなったが、旧社村兵事係・大日向正門さんは第2次大戦の最中には、兵事係としての職務を忠実に実行した。昭和20年8月15日、終戦を境に大本営から兵事書類の焼却命令が出されたが、命に反して現在まで遺した事が貴重な歴史的な遺産として後世に引き継がれて文化資料としての価値となった。
長男の大日向功さんは「父は生前、記録に残せ、記録は残せ。」と語っていたそうだ。
「記録というものの重要性を十分に認識されていたからこその英断だったのではないだろうか。そして、発見したこの資料を公開することを決断された長男の功さんの思いも重く尊いものだった。
3月27日付の読売新聞の論点スペシャル「議事録未作成問題」で、元首相の福田康雄氏は「公文書は歴史を記録する資料となるが、政府は、東日本大震災に対応した原子力災害対策本部など10組織の議事録が作成していなかったことは非常に重要な問題であり、1000年一度といわれている大災害の経験を将来に遺せなかった」と言っている。
また、東京大学大学院人文社会系研究科教授の加藤陽子氏は「震災や原発事故で忙しかったから記録は残せなかった」と政府は釈明している。しかし、「第2次大戦終結時の混乱期でもきちんとした記録が残されている。具体的には1945年8月14日から記録の作成が始まった次官会議の議事録がある。マッカーサーが何時進駐するか分からない状況下、各省庁の次官たちが旧日本軍の兵器や燃料などについて「民需に活用するため隠しておこう」という記録が大日本帝国用箋に書かれていると語っている。
*松本市文書館に保存されている”大本営最後の指令書”といわれる焼却指令書

前段が長くなったが、旧社村兵事係・大日向正門さんは第2次大戦の最中には、兵事係としての職務を忠実に実行した。昭和20年8月15日、終戦を境に大本営から兵事書類の焼却命令が出されたが、命に反して現在まで遺した事が貴重な歴史的な遺産として後世に引き継がれて文化資料としての価値となった。
長男の大日向功さんは「父は生前、記録に残せ、記録は残せ。」と語っていたそうだ。
「記録というものの重要性を十分に認識されていたからこその英断だったのではないだろうか。そして、発見したこの資料を公開することを決断された長男の功さんの思いも重く尊いものだった。









