歴史的建造物 日比谷公会堂
先日の9月20日に「戦場体験放映保存会」の主催で”戦後70年 証言集会”が開催された会場・日比谷公会堂は東京大空襲にも焼け残った歴史的な建造物でもある。
昭和4年に東京市長だった後藤新平の主張によって、安田善次郎が共鳴、当時としては巨額の350万円の寄附を得て、「東京市政調査会(市政会館)」およびそれに併設する公会堂として計画され、関東大震災の教訓から、地盤は2000本を越す松材で固められている。かつての大戦を知る《戦場体験者》である。
*日比谷公会堂

*公会堂の正面玄関

*かつての入場券売り場

*戦時中のポスターが一階の喫茶ルームに展示されていた。「白衣の天使を讃ふる会」のポスター

東京では事実上唯一のコンサートホールとしてプロフェッショナルのオーケストラの演奏会やリサイタルなども多く開かれた。戦前には政治演説会や国民(人民)大会が数多く行なわれた場所でもある。自由民主党はこの日比谷公会堂で総裁公選を執行するための臨時党大会を何度も開いている。
1960年10月12日の浅沼稲次郎暗殺事件は、この日比谷公会堂における立会演説会での出来事である。
昭和4年に東京市長だった後藤新平の主張によって、安田善次郎が共鳴、当時としては巨額の350万円の寄附を得て、「東京市政調査会(市政会館)」およびそれに併設する公会堂として計画され、関東大震災の教訓から、地盤は2000本を越す松材で固められている。かつての大戦を知る《戦場体験者》である。
*日比谷公会堂

*公会堂の正面玄関

*かつての入場券売り場

*戦時中のポスターが一階の喫茶ルームに展示されていた。「白衣の天使を讃ふる会」のポスター

東京では事実上唯一のコンサートホールとしてプロフェッショナルのオーケストラの演奏会やリサイタルなども多く開かれた。戦前には政治演説会や国民(人民)大会が数多く行なわれた場所でもある。自由民主党はこの日比谷公会堂で総裁公選を執行するための臨時党大会を何度も開いている。
1960年10月12日の浅沼稲次郎暗殺事件は、この日比谷公会堂における立会演説会での出来事である。
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戦場体験 日比谷公会堂に参加して
戦後70年の今年、数々の集会が全国で開かれた。多くは8月15日の終戦記念日が終わるとぱったりと「戦後70年」の言葉が聞こえなくなった。そのような中、私たちの映画制作に何時も温かい目で見守ってくれていた「戦場体験放映保存の会」は、あえて9月20日、「戦後70年、証言集会、シンポジューム」のタイトルで満を持して開催された。
*日比谷公会堂

*来場者は熱心に耳を傾けた(開場と同時に2階も開場したという)

私たちが戦場体験の証言を映像化するきっかけとなった2008年9月28日、同じ日比谷公会堂で戦場体験保存の会は「戦友よ語ってから死のう!」という強烈なタイトルで開かれた。〜戦場体験放映保存の会 10年史〜 によると登壇者20名
一人4分だった。来場者は1000人、来場者は固唾を飲んでじっくりと聴く雰囲気が拡がった。この頃から「語ってから死のう」という言葉が運動の中で育ち、会のテーマとなっていった。司会をやられた猪熊得郎さんのあの甲高い声「友よ、語ってから死のう」という言葉が印象に残った。その猪熊さんも車椅子ではあったが、元気そうな姿で証言者の一人として参加した。時間の経過を感じた。
*猪熊得郎さん

そして、2008年、この日比谷公会堂で、私たちの映画、戦場体験証言映画の第1作「語らずに死ねるか」の撮影がスタートした。この作品から6作の証言シリーズが始まった。
*日比谷公会堂

*来場者は熱心に耳を傾けた(開場と同時に2階も開場したという)

私たちが戦場体験の証言を映像化するきっかけとなった2008年9月28日、同じ日比谷公会堂で戦場体験保存の会は「戦友よ語ってから死のう!」という強烈なタイトルで開かれた。〜戦場体験放映保存の会 10年史〜 によると登壇者20名
一人4分だった。来場者は1000人、来場者は固唾を飲んでじっくりと聴く雰囲気が拡がった。この頃から「語ってから死のう」という言葉が運動の中で育ち、会のテーマとなっていった。司会をやられた猪熊得郎さんのあの甲高い声「友よ、語ってから死のう」という言葉が印象に残った。その猪熊さんも車椅子ではあったが、元気そうな姿で証言者の一人として参加した。時間の経過を感じた。
*猪熊得郎さん

そして、2008年、この日比谷公会堂で、私たちの映画、戦場体験証言映画の第1作「語らずに死ねるか」の撮影がスタートした。この作品から6作の証言シリーズが始まった。
終戦記念日は、8月15日ではない!!
第二次大戦が終結して70年を記念する式典が先日の9月3日、中国北京で行われた。ニュースで見た式典は盛大だった。
習近平体制になってこの日を「抗日戦争勝利記念日」と定めた。
パレードのクライマックスには、射程距離が1万5000キロとされる改良型の大陸間弾道ミサイル「東風5B」も初めて登場しました。
*天安門広場での軍事パレード

日本では8月15日が終戦記念日として定着している。その中国も1949年に国ができた直後、8月15日は、「抗戦勝利記念日」としてきた。
ポツダム宣言受諾が公表された玉音放送からおよそ半月後の9月2日、東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリ号にて調印された日が、終戦記念日とも言われている。
中国は近年、日中戦争を「世界ファシズム戦争」の一部だとし、連合国の一員として中国がいかに勝利に導いたか、国民には愛国心を訴えた。
9月3日に式典を行うということは、「ミズーリ号上での日本の降伏文書調印」が由来であった。第2次大戦の戦勝国として戦敗国である日本に対する「戦勝」を祝うという主旨のようです。
しかし、よく考えてみよう。第2次大戦の中国戦線で日本を相手に戦ったのは中華民国であって、中華人民共和国ではない。中華人民共和国は第2次大戦の交戦国ではないし、ミズーリ号上の降伏文書の署名当事国でもないのだ。
習近平体制になってこの日を「抗日戦争勝利記念日」と定めた。
パレードのクライマックスには、射程距離が1万5000キロとされる改良型の大陸間弾道ミサイル「東風5B」も初めて登場しました。
*天安門広場での軍事パレード

日本では8月15日が終戦記念日として定着している。その中国も1949年に国ができた直後、8月15日は、「抗戦勝利記念日」としてきた。
ポツダム宣言受諾が公表された玉音放送からおよそ半月後の9月2日、東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリ号にて調印された日が、終戦記念日とも言われている。
中国は近年、日中戦争を「世界ファシズム戦争」の一部だとし、連合国の一員として中国がいかに勝利に導いたか、国民には愛国心を訴えた。
9月3日に式典を行うということは、「ミズーリ号上での日本の降伏文書調印」が由来であった。第2次大戦の戦勝国として戦敗国である日本に対する「戦勝」を祝うという主旨のようです。
しかし、よく考えてみよう。第2次大戦の中国戦線で日本を相手に戦ったのは中華民国であって、中華人民共和国ではない。中華人民共和国は第2次大戦の交戦国ではないし、ミズーリ号上の降伏文書の署名当事国でもないのだ。
戦後70年の8月15日、靖国神社に参拝
戦後70年の8月15日、靖国神社に参拝した。この何年か、私は終戦記念の靖国神社をルポルタージュしてきた。70年前のこの日も暑い日だったと聞く。今日の靖国の森も蝉しぐれが降り注ぐ。
午前6時開門から参拝者の列が途切れることがなかった。19万人が訪れたそうだ。残念ながら私は正午をまわっており、黙祷に遅れてしまった。
*夏の太陽が容赦なく照りつける。

*参拝する人たち バックに菊の紋が金色に光る

これほども多くの人たちが靖国を訪れている事に私は驚きをもった。私は「戦場体験者の証言」映画シリーズを制作してきた。戦場体験者たちは「次は靖国で会おう」と言って亡くなっていったという。参拝する人たちはどのような思いで靖国神社に参拝するのだろうか。その中には戦場体験者、その遺族、また、英霊たちに「誠」の気持ちで接したいと思う人たちだ。戦後70年の今年はとりわけその想いが強く感じた。
*戦場体験者か。

*参拝を終わって礼をする

*本殿前で参拝を待つ

歩き回って足が棒のように気だるい。暑い、とにかく暑い。参拝者の列は本殿までの道のりをじっと我慢して待っている姿に「日本人の礼儀正しさ」「日本の繁栄に寄与した英霊への慈しむ心」を感じた。
しかし、帰路、九段下の交差点の光景に”これも70年かと驚いた。機動隊のバスが交差点を塞ぎ、バリケードを機動隊が囲む。右ががった?男たちが警官に罵声を浴びせている。
*機動隊のバスが交差点を塞ぐ

*機動隊がバリケードする

靖国神社に「暑い中をよく行くよね〜」とか、「右翼だよね」とよく言われる。戦場体験者の映画を作ってきた者としてお世話になった英霊たちに礼を尽くすこと、私は当然だと思う。
午前6時開門から参拝者の列が途切れることがなかった。19万人が訪れたそうだ。残念ながら私は正午をまわっており、黙祷に遅れてしまった。
*夏の太陽が容赦なく照りつける。

*参拝する人たち バックに菊の紋が金色に光る

これほども多くの人たちが靖国を訪れている事に私は驚きをもった。私は「戦場体験者の証言」映画シリーズを制作してきた。戦場体験者たちは「次は靖国で会おう」と言って亡くなっていったという。参拝する人たちはどのような思いで靖国神社に参拝するのだろうか。その中には戦場体験者、その遺族、また、英霊たちに「誠」の気持ちで接したいと思う人たちだ。戦後70年の今年はとりわけその想いが強く感じた。
*戦場体験者か。

*参拝を終わって礼をする

*本殿前で参拝を待つ

歩き回って足が棒のように気だるい。暑い、とにかく暑い。参拝者の列は本殿までの道のりをじっと我慢して待っている姿に「日本人の礼儀正しさ」「日本の繁栄に寄与した英霊への慈しむ心」を感じた。
しかし、帰路、九段下の交差点の光景に”これも70年かと驚いた。機動隊のバスが交差点を塞ぎ、バリケードを機動隊が囲む。右ががった?男たちが警官に罵声を浴びせている。
*機動隊のバスが交差点を塞ぐ

*機動隊がバリケードする

靖国神社に「暑い中をよく行くよね〜」とか、「右翼だよね」とよく言われる。戦場体験者の映画を作ってきた者としてお世話になった英霊たちに礼を尽くすこと、私は当然だと思う。
首相の戦後70年談話
明日、戦後70年を前に安部首相は「70年談話」を政府は14日、発表した。多くの国民はどんな内容かテレビ中継に耳を傾けた、だろうか。ちょうどお盆休みと重なって故郷へ移動中の人、故郷のテレビで見た人、私も食事をしながら注目した。焦点となっていた「侵略」については、言葉は盛り込まれたものの、先の大戦における日本の行為を侵略だと直接言及することは避けた。
*NHKテレビの安部首相

その一部を掲載した。談話は4000字にも及ぶと言う。私の一存で印象に残った部分だけを載せた。
「政治は、歴史から未来への知恵を学ばなければなりません。戦後70年という大きな節目にあたって、先の大戦への道のり、戦後の歩み、20世紀という時代を振り返り、その教訓の中から未来に向けて、世界の中で日本がどういう道を進むべきか、深く思索し、構想すべきである、私はそう考えました。
同時に、政治は歴史に謙虚でなければなりません。政治的、外交的な意図によって歴史がゆがめられるようなことは決してあってはならない、このことも私の強い信念であります。」
(途中略)
「百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。」
(途中略)
「そして七十年前。日本は、敗戦しました。
戦後七十年にあたり、国内外に斃(たお)れたすべての人々の命の前に、深く頭(こうべ)を垂れ、痛惜の念を表すとともに、永劫(えいごう)の、哀悼の誠を捧げます。
先の大戦では、三百万余の同胞の命が失われました。祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦陣に散った方々。終戦後、酷寒の、あるいは灼熱(しゃくねつ)の、遠い異郷の地にあって、飢えや病に苦しみ、亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、東京をはじめ各都市での爆撃、沖縄における地上戦などによって、たくさんの市井の人々が、無残にも犠牲となりました。
戦火を交えた国々でも、将来ある若者たちの命が、数知れず失われました。中国、東南アジア、太平洋の島々など、戦場となった地域では、戦闘のみならず、食糧難などにより、多くの無辜(むこ)の民が苦しみ、犠牲となりました。戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません。」
(途中略)
「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。」
私の一番印象に残った一文は「この戦争に何ら関わりなかった世代まで「謝罪」を続けなければならないか」である。
孫の世代、それより小さな子供達まで、本当に「謝罪」を続ける必要はあるのだろうか。元首相鳩山氏は韓国で「謝罪は、相手がもう良いと言うまで続けなければならないと」語ったそうだ、
50年、60年の村山談話、小泉談話についてもう一度読む機会を持ちたい。
また、戦場体験を映像化し続けた者として、明日の戦後70年の町の風景を見たいと思っている。
*NHKテレビの安部首相

その一部を掲載した。談話は4000字にも及ぶと言う。私の一存で印象に残った部分だけを載せた。
「政治は、歴史から未来への知恵を学ばなければなりません。戦後70年という大きな節目にあたって、先の大戦への道のり、戦後の歩み、20世紀という時代を振り返り、その教訓の中から未来に向けて、世界の中で日本がどういう道を進むべきか、深く思索し、構想すべきである、私はそう考えました。
同時に、政治は歴史に謙虚でなければなりません。政治的、外交的な意図によって歴史がゆがめられるようなことは決してあってはならない、このことも私の強い信念であります。」
(途中略)
「百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。」
(途中略)
「そして七十年前。日本は、敗戦しました。
戦後七十年にあたり、国内外に斃(たお)れたすべての人々の命の前に、深く頭(こうべ)を垂れ、痛惜の念を表すとともに、永劫(えいごう)の、哀悼の誠を捧げます。
先の大戦では、三百万余の同胞の命が失われました。祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦陣に散った方々。終戦後、酷寒の、あるいは灼熱(しゃくねつ)の、遠い異郷の地にあって、飢えや病に苦しみ、亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、東京をはじめ各都市での爆撃、沖縄における地上戦などによって、たくさんの市井の人々が、無残にも犠牲となりました。
戦火を交えた国々でも、将来ある若者たちの命が、数知れず失われました。中国、東南アジア、太平洋の島々など、戦場となった地域では、戦闘のみならず、食糧難などにより、多くの無辜(むこ)の民が苦しみ、犠牲となりました。戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません。」
(途中略)
「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。」
私の一番印象に残った一文は「この戦争に何ら関わりなかった世代まで「謝罪」を続けなければならないか」である。
孫の世代、それより小さな子供達まで、本当に「謝罪」を続ける必要はあるのだろうか。元首相鳩山氏は韓国で「謝罪は、相手がもう良いと言うまで続けなければならないと」語ったそうだ、
50年、60年の村山談話、小泉談話についてもう一度読む機会を持ちたい。
また、戦場体験を映像化し続けた者として、明日の戦後70年の町の風景を見たいと思っている。