日本のリンドバーグ
昭和12年4月に朝日新聞社の純国産機「神風」号で東京ロンドン間を51時間19 分23 秒という当時として驚異的な世界記録で飛行した。この英雄的なパイロットが安曇野出身で空への、飛行機乗りになりたいと少年たちの憧れであった。安曇野の空を凱旋記念飛行をした時は地元の少年たちの気持ちの高ぶりは頂点に達し驚喜した。
安曇野市に彼の業績を称えて記念館がある。彼の生家である。
*昭和12年4月11 日の当時の東京朝日新聞より
*飯沼飛行士は難関な逓信省委託操縦生試験に300名の中から4人に選ばれた。所沢陸軍飛行学校に入学して優秀なパイロットになった。(飯沼飛行士記念館より)
その飯沼飛行士に憧れた故細川晴男さんがいた。昨日掲載した満豪開拓青少年義勇軍に志願した内田辰男さんとは
小学校の時からの友達だった。共に、飯沼飛行士の勇士に憧れた。細川さんと一緒に海軍予科練習生に応募したが
内田さんは弱色で不合格、細川さんは2回目の試験で合格。細川さんはあこがれの海軍の飛行機乗りとしてスタートした。しかし、映画のタイトルのように「はじめ嬉しく、あと悲し」だった。
安曇野市に彼の業績を称えて記念館がある。彼の生家である。
*昭和12年4月11 日の当時の東京朝日新聞より
*飯沼飛行士は難関な逓信省委託操縦生試験に300名の中から4人に選ばれた。所沢陸軍飛行学校に入学して優秀なパイロットになった。(飯沼飛行士記念館より)
その飯沼飛行士に憧れた故細川晴男さんがいた。昨日掲載した満豪開拓青少年義勇軍に志願した内田辰男さんとは
小学校の時からの友達だった。共に、飯沼飛行士の勇士に憧れた。細川さんと一緒に海軍予科練習生に応募したが
内田さんは弱色で不合格、細川さんは2回目の試験で合格。細川さんはあこがれの海軍の飛行機乗りとしてスタートした。しかし、映画のタイトルのように「はじめ嬉しく、あと悲し」だった。
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大和特攻に参加した特年兵
7月に入った3日、特年兵(海軍特別年少兵)だった井上理二さんの3回目の聞き取り取材をした。この日は昭和20年
大和特攻(沖縄特攻)についてお聞きした。
*井上理二さん
第2水雷戦隊に最後の命令が下されたのは、米軍が沖縄本島に上陸した昭和20年4月。
井上さんは出撃命令が下った時には死を覚悟した。残った9隻の駆逐艦等と戦艦「大和」と共にしてが沖縄に突入する「特攻作戦」だった。4月6日に出撃した艦隊は翌7日、鹿児島沖で米軍艦載機による波状攻撃にさらされた。およそ4時間以上の戦闘で巨艦「大和」は群がり来る米機が投下する爆弾で水柱が上がり、大和の巨体が揺れ、もうもうたる黒煙を上げて、時折、赤い炎がふきあがり地獄のようだった。速力も落ちて回避もままならないようすだった。僚船「矢矧」が被弾して幽霊船のように漂っていた。「磯風」に「矢矧」の横に付けよという無謀な命令が下った。敵機の波状攻撃で「磯風」も被弾。この世のものとは思えぬものすごい爆発音と衝撃で井上さんは鞠のように吹っ飛んだ。
目の前で日本海軍が誇った巨大戦艦「大和」は駆逐艦が見守る中、海に沈んでいった。この特攻作戦で生還を果たしたのは4隻の駆逐艦のみだった。その後、井上さんが乗る「磯風」は右に傾いて、立って歩けない、這うように
進もうとするが血のりで滑って歩けないのだ。
*駆逐艦「磯風」の模型
大和特攻(沖縄特攻)についてお聞きした。
*井上理二さん
第2水雷戦隊に最後の命令が下されたのは、米軍が沖縄本島に上陸した昭和20年4月。
井上さんは出撃命令が下った時には死を覚悟した。残った9隻の駆逐艦等と戦艦「大和」と共にしてが沖縄に突入する「特攻作戦」だった。4月6日に出撃した艦隊は翌7日、鹿児島沖で米軍艦載機による波状攻撃にさらされた。およそ4時間以上の戦闘で巨艦「大和」は群がり来る米機が投下する爆弾で水柱が上がり、大和の巨体が揺れ、もうもうたる黒煙を上げて、時折、赤い炎がふきあがり地獄のようだった。速力も落ちて回避もままならないようすだった。僚船「矢矧」が被弾して幽霊船のように漂っていた。「磯風」に「矢矧」の横に付けよという無謀な命令が下った。敵機の波状攻撃で「磯風」も被弾。この世のものとは思えぬものすごい爆発音と衝撃で井上さんは鞠のように吹っ飛んだ。
目の前で日本海軍が誇った巨大戦艦「大和」は駆逐艦が見守る中、海に沈んでいった。この特攻作戦で生還を果たしたのは4隻の駆逐艦のみだった。その後、井上さんが乗る「磯風」は右に傾いて、立って歩けない、這うように
進もうとするが血のりで滑って歩けないのだ。
*駆逐艦「磯風」の模型
会津白虎隊と昭和の白虎隊=特別年少兵
NHKの大河ドラマ「八重の桜」で会津白虎隊の出陣が放送されている。筆者も必ず見ているが、今日(23日放送)の放送は、戊辰戦争に参戦した会津藩は,征討軍が進入し会津藩が危機におちいる。16才から17才の少年たち白虎隊の出陣から飯盛山の戦いの場面が放送された。
昭和の白虎隊と言われた「特年兵」。太平洋戦争の時局下に純真無垢の少年たちが一途な愛国心に燃えて祖国の急に馳せ参じたその数は十七年の一期生三千二百名をはじめ 二期生四千名 三、四期生各五千名 終戦の二十年まで約一万七千二百名におよんだという。
このブログで特年兵として志願した井上理二さんを紹介している。先日、東京の清瀬にお住まいの井上さんのインタビューを取材した。
*インタビューに答える井上さん
井上さんは15歳で(海軍)特年兵に志願 。当時、日本は既に戦争一色だった。男性の出世は兵士になること、という風潮で、軍人になることは憧れでもあった。志願したころはまだ子どもであったため、「国家の御為」とか「天皇の御為」という気持ではなかった。実家は貧乏で、どうせいつか戦争に行くのなら2年でも3年でも早く行こうと思っていた。
*16才の少年兵 井上さん
母は「男の子はそのくらいのことをしないと。田舎にいても仕方がない」と言っていたが、内心行ってほしくないと思っていたと思う。徴兵されることが決まった時は嬉しいような怖いような、複雑な気持ちだった。 特年兵に選ばれるのは村で1人ずつくらいの割合だった。
*前列、真ん中が井上さん
昭和の白虎隊と言われた「特年兵」。太平洋戦争の時局下に純真無垢の少年たちが一途な愛国心に燃えて祖国の急に馳せ参じたその数は十七年の一期生三千二百名をはじめ 二期生四千名 三、四期生各五千名 終戦の二十年まで約一万七千二百名におよんだという。
このブログで特年兵として志願した井上理二さんを紹介している。先日、東京の清瀬にお住まいの井上さんのインタビューを取材した。
*インタビューに答える井上さん
井上さんは15歳で(海軍)特年兵に志願 。当時、日本は既に戦争一色だった。男性の出世は兵士になること、という風潮で、軍人になることは憧れでもあった。志願したころはまだ子どもであったため、「国家の御為」とか「天皇の御為」という気持ではなかった。実家は貧乏で、どうせいつか戦争に行くのなら2年でも3年でも早く行こうと思っていた。
*16才の少年兵 井上さん
母は「男の子はそのくらいのことをしないと。田舎にいても仕方がない」と言っていたが、内心行ってほしくないと思っていたと思う。徴兵されることが決まった時は嬉しいような怖いような、複雑な気持ちだった。 特年兵に選ばれるのは村で1人ずつくらいの割合だった。
*前列、真ん中が井上さん
特殊潜航艇 海竜
6月に入って第4作ドキュメンタリー映画「はじめ嬉しく、あと悲し」の撮影が本格的になってきた。
6月19、20日は長野県の阿智村と木曽福島へ取材した。木曽福島は4月に亡くなった細川晴男さんから紹介を受けた宮田正士さん。宮田さんは木曽福島の水無神社(すいむじんじゃ)の名誉宮司である。この作品の主題である少年兵たちの青春の奇跡、宮田さんは16才で予科練に志願したが、飛行機乗りとしての憧れが「特殊潜航艇ー海竜」で特攻へ、しかし、この特殊潜航艇は一度も出撃しないまま終戦に。
*インタビューを受ける宮田宮田正士さん 海竜の模型を前に
回天は、特殊潜航艇・人間魚雷などと呼ばれて一般に有名であり、知らぬ人はないと思う。
これら二つの水中特攻兵器に較べ、海竜については、ごく限られた人にしか知られていないようであるので、まず海竜とはどんなものであったのか。
*広島の江田島に展示している「海竜」
一口でいうと小型の有翼潜水艇であって、昭和19年も半ばを過ぎてから試作にかかり、昭和20年4月から量産が始められたものである。これが終戦時には200隻以上となり、各地の突撃隊に展開され、蛟竜・回天・震洋などと共に本土決戦に備えたのである。然しながら遂に実戦に参加する機会もなく終戦となり、幻の特攻兵器のまま、その運命を閉じたのである。
6月19、20日は長野県の阿智村と木曽福島へ取材した。木曽福島は4月に亡くなった細川晴男さんから紹介を受けた宮田正士さん。宮田さんは木曽福島の水無神社(すいむじんじゃ)の名誉宮司である。この作品の主題である少年兵たちの青春の奇跡、宮田さんは16才で予科練に志願したが、飛行機乗りとしての憧れが「特殊潜航艇ー海竜」で特攻へ、しかし、この特殊潜航艇は一度も出撃しないまま終戦に。
*インタビューを受ける宮田宮田正士さん 海竜の模型を前に
回天は、特殊潜航艇・人間魚雷などと呼ばれて一般に有名であり、知らぬ人はないと思う。
これら二つの水中特攻兵器に較べ、海竜については、ごく限られた人にしか知られていないようであるので、まず海竜とはどんなものであったのか。
*広島の江田島に展示している「海竜」
一口でいうと小型の有翼潜水艇であって、昭和19年も半ばを過ぎてから試作にかかり、昭和20年4月から量産が始められたものである。これが終戦時には200隻以上となり、各地の突撃隊に展開され、蛟竜・回天・震洋などと共に本土決戦に備えたのである。然しながら遂に実戦に参加する機会もなく終戦となり、幻の特攻兵器のまま、その運命を閉じたのである。
東郷神社と海軍特別年少兵
先日、原宿にある東郷神社に行ってみた。この神社に「海軍特別年少兵」を
祭った碑があると聞いていた。東郷神社は軍神と言われた、日露戦争の日本海大海戦でロシアバルチック艦隊を殲滅した連合艦隊司令長官 東郷平八郎(1847-1934)を祭っている。
*東郷神社
原宿と言えば若者の町である。JR原宿の竹下通り口を出て、若者の憧れの竹下通りを抜けて明治通りに面した所にある。すっかりサクラも散ってしまったが、大都会のオアシスのようにお社(やしろ)がひっそりとあった。
*海軍特別年少兵の碑
海軍史上、最年少の有志である。少年兵より更に二 才も若くしかも特例に基ずいたものであったため 特別年少兵 特例年令兵の名があり 特年兵と略称された。
昭和十六年 帝国海軍はその基幹となるべき中堅幹部の養成を目的にこれを 創設した 。太平洋戦争の時局下に 純真無垢の児童が一途な愛国心に燃えて祖国の急に馳せ参じた その数は十七年の一期生三千二百名をはじめ 二期生四千名三、
四期生各五千名 終戦二十年まで約一万七千二百名におよんだ
祭った碑があると聞いていた。東郷神社は軍神と言われた、日露戦争の日本海大海戦でロシアバルチック艦隊を殲滅した連合艦隊司令長官 東郷平八郎(1847-1934)を祭っている。
*東郷神社
原宿と言えば若者の町である。JR原宿の竹下通り口を出て、若者の憧れの竹下通りを抜けて明治通りに面した所にある。すっかりサクラも散ってしまったが、大都会のオアシスのようにお社(やしろ)がひっそりとあった。
*海軍特別年少兵の碑
海軍史上、最年少の有志である。少年兵より更に二 才も若くしかも特例に基ずいたものであったため 特別年少兵 特例年令兵の名があり 特年兵と略称された。
昭和十六年 帝国海軍はその基幹となるべき中堅幹部の養成を目的にこれを 創設した 。太平洋戦争の時局下に 純真無垢の児童が一途な愛国心に燃えて祖国の急に馳せ参じた その数は十七年の一期生三千二百名をはじめ 二期生四千名三、
四期生各五千名 終戦二十年まで約一万七千二百名におよんだ